柴山地区の各家々に伝わる「屋号」のことを調べてみました
こんにちは。光と海と風を感じる海辺の小さな宿まる屋若大将、藤原啓太です。
皆様は「屋号」という言葉をご存知でしょうか?一般的には個人店や企業につけられる名称で、「店の名前」とも言えるのが屋号です。まる屋には「まるや」という屋号があります。祖父の代で作られた宿の名前です。
実は、まる屋には「藤左衛門(とうざえもん)」という屋号が宿の屋号とは別にあります。その一家、一門に付けられる名称という本来の意味を持つ屋号、柴山地区にあります各家々にも名字とは違うそれぞれの家の屋号が存在します。
目次
柴山地区、浦上に伝わる屋号
まる屋はJR柴山駅、柴山海水浴場周辺の浦上(うらがみ)という地域にあります。この辺りでは個人で商売をされている家もありますが、それ以外の職に就かれている家の方も多くいらっしゃいます。その各家々にあります屋号の一部をご紹介します。
太郎兵衛(たろべえ)
治左衛門(じざえもん)
藤左衛門(とうざえもん)
佐兵衛(さへい)
彦治(ひこじ)
重五郎(じゅうごろう)
惣太夫(そうだゆう)
小右衛門(こえもん)
佐吉郎(さきちろう)
五郎兵衛(ごろべえ)
治兵衛(じへい)
平助(へいすけ)
庄三郎(しょうざ)
六三郎(ろくざ)
三郎右衛門(さぶろうえもん)
彦兵衛(ひこべえ)
三四郎(さんしろう)
重左衛門(じゅうざえもん)
又四郎(またしろう)
三郎兵衛(さぶろべえ)・・・
ご覧頂いたように屋号には人物の名前が使われています。その家のご先祖様のお名前がそのまま屋号になっているようです。現在でも浦上の方は日常的にこの屋号を使われています。何十年もこの地に住まれている方は名字を言うよりも屋号でどの家の方かを判断されています。この地域には「藤原」姓が多かったのも屋号がよく使われていた理由かもしれません。
まる屋には「まるや」と「藤左衛門」の2つの屋号があります。その理由は、僕の曾祖父の時代にさかのぼります。
まる屋の由来
父方の曾祖父は「安太郎(やすたろう)」という名前でした。当時、安太郎さんは自分が所有する物や道具に自分の物だとわかるように目印を付けていました。その印が、やすたろうの「や」に「○印」を加えたもの。「○(丸)」に「や」で「まるや」と決めていたそうです。
その頃は「藤左衛門」という屋号があったのですが、「まるや」の印を使うにつれ、徐々に「まるや」で周りの方々に浸透していったそうです。その後、祖父の代で始めた民宿業の宿名を周囲に浸透していた「まるや」をそのまま屋号とし「まる屋」と名付けられました。
親から子へ、子から孫へ
小さな集落であった浦上には、昔から受け継がれているある決まりがありました。
昔々、浦上に2人の兄弟がいました。長男が結婚して、実家で両親と一緒に住むことになりました。続いて、次男も結婚が決まりました。実家には長男夫婦がいるので、次男夫婦は実家を出ることになります。その時、次男夫婦は浦上の中の新たな土地で新居を構えるのではなく、この地域を出ることになるのです。
地域全体を考えると、あまり裕福ではなかった浦上。その上、新たに家を建てる土地もありませんでした。そこで考えられたのがその一家の後を継ぐ者以外の兄弟は浦上を離れ、他の土地でお金を稼ぎ、生活するということでした。現在では時代が変わり、新しく家を建てられた方もいらっしゃいますが、浦上に住まれているほぼ全ての方はそれぞれの屋号となる名前のご先祖様直系の末えいとなります。我が家に残るご先祖様に関する資料を調べると、第一代藤左衛門は宝永5年(1708年)に亡くなられたことが記されています。宝永年間(1704年~1710年)には日本史上最大級と推定されている宝永地震や富士山の史上最後の噴火(宝永大噴火)が起き、宝永通宝(ほうえいつうほう)という銭貨の発行などが行われた時代です。
こちらは、香美町にあります「ジオパークと海の文化館」に展示されている江戸期の海岸絵図です。美含郡 丹生澗図(みぐみぐん にゅうかんず)と題され、当時、出石藩の領地であった柴山地区の様子が描かれています。こちらの絵図は宝暦13年(1763年)~文政11年(1828年)の間に描かれたものと推測されていますので、この絵図が描かれた時代にはすでに藤左衛門という屋号の家が存在していたことになります。
江戸時代から現在まで脈々と受け継がれる藤左衛門という屋号。現当主である大将は十代目藤左衛門、僕は、十一代目藤左衛門を襲名することになります。
上計、沖浦の屋号
同じ柴山地区内の上計(あげ)沖浦(おきのうら)という地域にも各家々に屋号が存在します。元々昔、沖浦(おきのうら)に小字(こあざ)柴山という集落があったことから、港を含む地域全体を柴山と呼ぶようになったそうです。そして、柴山地区の隣にあります佐津地区には昔から「丸山」と呼ばれていた山がありましたが、海から見える丸山を目印に柴山の港へ入ったことから、いつしかその山を「柴山」と呼ぶようになったと『柴山港漁業協同組合史』に記載されています。
漁業が生活の基盤であった上計(あげ)沖浦(おきのうら)地区。海難事故により、漁業から手を引いた浦上(うらがみ)とは異なり、漁業を中心に発展していったこの土地は屋号に関しても、浦上とは違う文化が生まれていきました。
本家と分家
観光で来られた方はもちろん、地元の方でなければ上計(あげ)地区内に入る機会はあまりありません。柴山の地区としては世帯数、人口共に最も多い地域です。柴山漁港から北の沿岸部を沖浦(おきのうら)といいます。この二地区では漁業を生業とする方が多く住まれていました。やはり浦上と同じように屋号が存在しますが、浦上とは違う継承の文化がありました。それは「新宅」という文化です。
浦上では複数人の兄弟がいても、浦上に残るのはそのうちの1人ということが決まりでしたが、土地が広く漁業が生活の中心となっていた上計と沖浦では、複数の兄弟が同じ地域に住み、新たに住居を建てることができたのです。一家の屋号が親から子へ、子から孫へと直系に伝えられてきた浦上に対し、本家と分家が存在する上計と沖浦。屋号はどのようになるのでしょうか。
昔々、上計にヘイジロウという屋号の家がありました。その家には2人の兄弟がいました。弟の名前はクニオといいます。ヘイジロウという屋号の家は長男が継ぐことになり、弟のクニオさんは上計の中の新たな土地で家を建てました。新居には「ヘイジロウの家から出たクニオさんが建てられた家」という意味で、ヘイジロウ+クニオでヘイクニという新たな屋号が生まれます。
おそらくクニオさんが家を建てられてからしばらくは「ヘイジロウの新宅」と周りからは知られていたでしょう。「ヘイジロウの新宅」として生活するうちにその家は周囲に認知されていきます。やがてその一家の当主がクニオさんという方であると認知されて、ヘイジロウの新宅からヘイクニという屋号へ変化していったと考えられます。これが新しく屋号が生まれる上計、沖浦の文化です。
漁船と屋号
漁業が盛んであった上計、沖浦。漁にでる漁師は当然、船を所有していました。今では所有する家は少なくなっていますが、昔から船を代々受け継がれている家は現在も残っています。柴山漁港所属の栄正(えいしょう)丸。僕の幼なじみの家が所有している漁船です。家の屋号は、「庄五郎(しょうごろう)」といいます。その家を庄五郎という屋号で認知されている方は、昔からこの地に住む高齢者の方が多く、その世代よりも若い方には船名である「栄正丸」又は、「栄正」と認知されています。「藤左衛門」から「まるや」が認知されだしたように、船名が屋号の代わりとして使われるようになっています。
しかし、船を所有する全ての家でそうなっているわけではありません。もう一人の幼なじみの家は、福祥(ふくしょう)丸という船を所有しています。家の屋号は「佐吉(さきち)」です。この家は上計の地で長く続く家柄のためか、福祥丸という船名ではなく現在でも「佐吉」という屋号で周囲には知られています。
各家々の印、焼判
上計、沖浦では屋号とは別に、現在でも伝えられているもう一つの文化があります。
これは「焼判(やきばん)」といい、各家々に伝わる独自の印です。商売をしている家では商売上でのトレードマークとなり、商売をしていない家では自分が所有している物につける印となっていたようです。僕の曽祖父、安太郎さんがつけた「まるや」と同じですね。当時、浦上にも焼判の文化はあったようですが、今ではほとんど使われなくなってしまったそうです。
写真は、柴山で水産加工業を営む寺川水産の倉庫に眠っていたちょうちんです。ちょうちんの表には焼判、裏には寺川利三郎と書かれています。利三郎とは、寺川水産のご先祖様の名前です。現在、寺川水産では「○(丸)」に「三」で「マルサン」という新たな印を使用して商売をされていますが、当時はこの焼判が利三郎さんの家だと判断する印として使われていたようです。焼判を現在でも使用されているところもあります。
柴山漁港近くにあります今西食品。屋号は甚六(じんろく)と言われるのですが、このような焼判を使われています。現在でも今西食品では焼判をそのまま使用されています。その他にも、焼判を商業用のトレードマークとして現在も使用されている業者はたくさん残っています。
世界から注目される日本
僕自身、屋号についての知識は元々あまりありませんでした。自分の家が「藤左衛門」という屋号で何代も続いているということぐらいしか理解していなかったのです。しかし今回柴山の方々にご協力を頂き、屋号について調べるにつれてこの小さな田舎町にこれほどの文化や伝統が残されているということを改めて知ることとなりました。
最近では日本全国の観光地で海外の方を見られるようになりました。城崎温泉などの但馬の観光地でも海外のお客様は増えています。2020年の東京オリンピックに向けて日本に来られる海外の方は益々、増えていくことでしょう。世界から注目されている日本。現在のこの状況は自然に起きていったことでしょうか。
いえ、そうではないと思います。日本の良さを世界に伝えようと、ずっと以前から発信を続けられていた日本人の方々の影響が現在の状況につながっていると思います。「日本の良さを伝えたい」これだけ世界で日本が注目されているのは、時代、歴史、伝統、気候、食材、改めてそれらを見つめなおし、熟知し、海外に伝えていった結果だと思います。
それを柴山に置き換えて、香美町に置き換えて、但馬に置き換えて考えてみるとどうでしょう。その土地の良さは、その土地に住む方が一番よくわかっておられると思います。もちろん、悪い点もよくわかっておられると思います。小さな田舎町の柴山に、これだけの文化、伝統が残っています。但馬の様々な地域でも、きっと昔から受け継がれているものは残っていることでしょう。地元のこと、自分が住んでいる所のことを知る。但馬に住む方々が但馬の良さを認識し、深く理解し、外部に伝えようとすればその魅力が伝わるような気がします。
これは但馬以外でも日本全国、どの土地でも同じことです。「自分が住むこの町の良さってなんだろう?」「この町に昔から続く伝統は、なぜ続いているのだろう?」と改めて考えること、おじいさんおばあさんや地元に長く住まれている方々の話を聞いて、当たり前すぎて気にも留めてなかったことをもう一度考えてみることで何か新しいことに気付くかもしれません。自分が住んでいる土地のことをより深く知ることで、その土地が今よりももっと光り輝いて見えてくるのではないでしょうか。