松葉がにとホタルイカの町 浜坂を支えた製針産業のこと
こんにちは。光と海と風を感じる海辺の小さな宿まる屋若大将、藤原啓太です。
兵庫県但馬地方の北西部、鳥取県との県境に位置しているのが美方郡新温泉町。町内で日本海に面している地域が浜坂地区です。今の時期は松葉がにやホタルイカの水揚げが盛んに行われる港町です。漁業が中心産業のこの地域に「製針産業」が行われていたことを知ったのは、2年くらい前のことでした。
現在も続けられている「製針産業」について、新温泉町浜坂にあります「日本精機宝石工業」にお話を伺いに行きました。
香美町の隣町、新温泉町浜坂地区へ来ています
冬には松葉がに、春にはホタルイカが水揚げされることで知られている浜坂は、製針産業の町でもあります#JICO pic.twitter.com/RKh1i4pQEk— 藤原啓太 但馬の魅力を伝えたい若大将 (@keita_maruya) 2018年2月15日
目次
始まりは「縫い針」から
元々、製鉄業の基盤があった浜坂地区。最初は針金の製造業を行われていたそうです。転機となったのは市原惣兵衛という方によって長崎から縫い針製造の技術が伝えられたことでした。長崎から技術者2人を浜坂へ連れ帰り、縫い針製造を始めようとしたのです。しかし、当初は地元住民の理解が得られず、針製造の事業は思うように軌道に乗りませんでした。やがて浜坂で針製造が行われるようになるのですが、それは市原惣兵衛が亡くなってからだったそうです。
「日本精機宝石工業株式会社」の前身である「中川製針工場」が縫い針製造を始められたのは1873年(明治6年)。浜坂で製造される縫い針の品質の良さが高く評価され、京都の針問屋の目に留まり「みすや針」として販売され、広く世に知れ渡っていきました。
縫い針の衰退から始まる新たな針製造
時代は流れ昭和時代、日本は目まぐるしく経済発展をしていきました。生産性や効率性を重視する世の中になり、都市部からかけ離れた場所にある浜坂の縫い針製造にも大きく影響しました。製針業に陰りが見え始めた原因は、原材料の輸入と機械化の導入です。
浜坂の縫い針は国産原料で1本1本を人が丁寧に作り上げていく、いわば伝統工芸品のような工業製品でした。安価な原料を海外から仕入れ、更に機械化により一定の品質の製品をより多くより低コストで生産できる他の針製品には価格面や生産量など到底太刀打ちできません。手仕事で作られた浜坂の針の良さをわかって頂いている方もいらっしゃいましたが、縫い針製造は衰退の一途をたどりました。
浜坂にある製針業の会社では、縫い針製造で培われた技術を新しい製品として作り上げていく方向へと事業を進めていきました。蓄音機の針の製造です。
縫い針と同じ針とはいえ、使う用途も形も全く違う針製品。試行錯誤、多くの失敗を繰り返し、蓄音機の針の製造を続けられました。そして、その技術がレコード針製造へとつながっていくのです。蓄音機の針とレコード針も姿かたちは全く違います。ここでも失敗を繰り返し少しずつ少しずつ製造技術を習得していきました。
縫い針の技術が伝わり、製造が始められて93年、時代と共に変化し針の製造を続けられていました。
再び訪れる衰退 CDの普及
僕が子供の頃、レコードで音楽を聞いた記憶はほとんどありません。時代はCD全盛期。縫い針の衰退と同じようにレコード針の衰退も時代の流れと共にやってきました。その時「日本精機宝石工業」で新たに研究されていたのがレコードを追いやったCDでした。CDのプレーヤーを研究し、その仕組みを理解した上で新たな製品ができないかと開発されたのが、CDから音楽情報を読み込むレンズを洗浄するクリーナーです。その他にも今までの針製造・加工の技術を生かし、ゲージコンタクトと呼ばれる計測ツールや歯科用工業用のダイヤモンドバーなどを開発・製造をされていました。
CD最盛期を迎えている時代、レコード針の製造依頼も僅かながらあったそうです。「レコードを使う人、レコード針を必要としている人がたとえ1人でもおられるなら、製造を続ける」その信念で製造を続けられていました。
レコード針に再び注目が集まる
レコードプレーヤーを使う方々は日本だけではなく、世界中におられます。日本精機宝石工業では2004年、個人向けにレコード針を注文できるサイトを立ち上げられました。扱う製品は2000種類以上、どの製品も1つから注文できます。
高い品質を保ち生産を続けられていた「JICO」のレコード針。そのクオリティは世界中から高く評価されていました。レコード針生産の多くは海外からの注文だったそうです。
そして現在、日本にもレコード復活の流れが起きています。レコードに慣れ親しんだ世代の方はもちろん、レコードを知らない若い世代の方々からも注目が集まっています。デジタル化されたCDやネット上からダウンロードする曲とは違い、耳で聞こえない音域まで奏でるレコードには、耳だけでなく体で感じる音以外の感覚が生まれると言います。そこに良さを感じ取れる方々が増えてきたんだそうです。
レコードから流れる音の臨場感がスゴイ!
プレーヤーの最も重要なパーツであるレコード針の製造依頼が世界中から集まる #日本精機宝石工業
その会社が浜坂地区にあることは、但馬に住む者として本当に誇らしいです
#JICO pic.twitter.com/1Vj9RAPpLT— 藤原啓太 但馬の魅力を伝えたい若大将 (@keita_maruya) 2018年2月15日
2000種類以上もあるレコード針を1つから注文できるのは、都市部ではなく浜坂に工場があるから。都市部の工業地帯と違い、協力工場が周辺にないということが理由です。このパーツはこの会社から、この部品はこの会社からというような製造体制ではなく、ほぼ全ての部品を自社で生産しているため、実現できることなのです。しかし、容易に自社生産ができるようになったわけではありません。失敗や試作の連続、大変な労力と長い長い時間をかけてゆっくりとカタチになったものだそうです。物づくりに対して、挑戦し続ける浜坂の方々のひたむきな姿勢があってこそ今日まで製造技術が伝わっているんだと思います。
町の歴史・産業を知ること
「日本精機宝石工業」へお邪魔する前に、浜坂出身の友人に浜坂の針について聞いてみました。すると、針のことはなんとなくは知っているが、実際のところよく知らないという答えが返ってきました。こちらの会社でも今まで針製造の詳しい話を大々的に公表しているかといえばそうではないようで、最近になって少しずつ公にする部分が増えてきているとおっしゃられていました。しかし、針製造の始まりや世界的に評価されているレコード針のことなど、ある程度は知っているかなーと思っていましたが・・・^^;僕も元々知らなかったのでエラそうなことは言えませんが(笑)
小学校・中学校・高校と、歴史について学ぶ時間はたくさんあります。しかしそれは、日本の歴史や世界の歴史について。もちろんそのような歴史を知っておくことは非常に重要なことです。学校の成績や受験などにも関わってきますからね。でもその中で、但馬の、新温泉町の、浜坂の歴史や産業について学べる時間や家族と話す時間が作れたのなら。この時代にこの町でこんな出来事があった、と日本の歴史と町の歴史とを比べながら学べたら。町のことをちょっとだけ好きだった子がもっともっと好きになるんじゃないかな。自分が生まれた町にもっともっと愛着や誇りを持ってくれるんじゃないかな。と思うんです。
2018年、「日本精機宝石工業」は法人設立60年(創業144年)を迎えられます。工場での製造作業は一般公開されていませんが、工場の中の様子や製造過程などを動画投稿サイトで公開されています。その動画は浜坂にあります「宇津野神社」の境内社「針神社」の妖精が工場へ訪れるというストーリー。3分ちょっとの動画です。是非ご覧ください。
また一つ、但馬の町の魅力を感じることができました。